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立石(たていし)

立石(たていし)

なぎさに立石が孤立する秋谷海岸は、古来より風光明媚な地として知られています。江戸時代の風景画家、安藤広重もこの地をおとずれ、風景画に描いています。明治27年(1894年)に葉山に御用邸ができますと、立石は永昭(えいしょう)皇太后のお気に入りの場所となり、そこには茶寮が設けられました。大正天皇や昭和天皇もこのお茶寮でお休みになられています。この地は現在、立石公園となっています。荒磯に砕ける波と松の緑をその滑らかな石の面に映して、泉鏡花の文学碑が建っています。

浄楽寺

浄楽寺

この寺の正式名称は「金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺(こんごうさんしょうちょうじゅいんおおみどうじょうらくじ)」と言い、鎌倉光明寺の末寺にあたります。文治五年(1189年)、三浦一族の武将で、鎌倉幕府侍所の初代長官である和田義盛が建立した七阿弥陀堂の1つであると言われています。のちに、鎌倉光明寺の僧寂恵(じゃっけい、1305年没)が中興し、今に至ります。
国指定重要文化財に指定されているご本尊の阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像の5体は、「日本のミケランジェロ」と評される鎌倉時代の仏師運慶作の仏像です。運慶作の仏像は、本堂裏手の収蔵庫に安置され、3月3日と10月19日の年2回、一般公開されています。(公開日以外は、10名以上であれば事前に浄楽寺に予約を入れて拝観可能です。)源頼朝の後室=北条政子が承久2年(1220年)奉納したと伝わる懸仏も御覧になれます。

浄楽寺【郵便の父・前島密の墓碑】

浄楽寺【郵便の父・前島密の墓碑】

浄楽寺には、戒名や墓碑銘もない墓らしからぬ富士山の形をした前島密の墓があります。前島密は、晩年、浄楽寺境内に山荘を築き、「如々山荘」(如々とは、ありのままの姿の意)と名付けたこの山荘で静かに自叙伝を執筆しました。墓のある場所は、山荘の前島夫妻の富士山を眺めるスポットであったそうです。
前島密は、天保六年(1853年)、越後国中頚城(なかくびき)郡津有(つあり)村下池部(現在の新潟県上越市下池部)の上層農家に生まれました。”郵便の父”と称され、明治期に郵便事業を創業したばかりでなく、鉄道の敷設、新聞の発刊、陸運会社の設立、東京専門学校(現、早稲田大学)の創立などに関わり、明治政府の殖産興業や文明開化の施策を推進させ、新しい国づくりに尽しました。
横須賀製鉄所の創設者と知られ、幕末にすでに郵便制度を提唱していたとされる小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の遺児国子は、成人して婿を迎えますが、その際、密は仲人をつとめています。前島密は、生前の小栗上野介忠順と繋がりをもっていたのでしょう。

若命家長屋門(横須賀市指定市民文化遺産)

若命家長屋門(横須賀市指定市民文化遺産)

若命家は、江戸時代、秋谷村の名主(なぬし)を勤めていました。名主とは村役人の長で、村の行政をつかさどり、 百姓身分でありながら名字帯刀を許され、長屋門を構えることも許されました。若命家の長屋門は、幕末の頃の建造と伝えられ、 門の左手に納屋と米倉、右手に長屋(室)があるもので、漆喰(しっくい)造りで、腰の部分が平瓦のなまこ壁となっています。 屋根はもともと茅葺(かやぶき)でしたが、関東大震災後の修理で瓦葺となっています。

『草迷宮』に描かれた秋谷

『草迷宮』に描かれた秋谷

◎「『草迷宮』に描かれた秋谷」
胃腸病の転地療養のため逗子に逗留していた泉鏡花は、当時の中西浦村大字秋谷の風土を舞台に、妖美な物語の世界を著書『草迷宮』で描いています。
舞台は、葉山と横須賀の境であり、横須賀の入り口となる長者ヶ崎から始まり、物語の最高潮を迎える秋谷村の庄屋の別宅、黒門の古館は、江戸時代秋谷村の名主であった若命家の長屋門がそのモデルといわれています。
物語の舞台である長者ヶ崎から秋谷バス停近くの若命長屋門までを、三崎街道(国道134号)沿いに、泉鏡花の筆の運びに寄り添って辿ってみるならば、現在の秋谷の姿の向こうに、明治の秋谷の姿が浮かび上がってくるでしょう。

大楠山

大楠山

大楠山は、三浦半島の最高峰(標高242m)です。決して高くはありませんが、三浦半島の中心部に位置し、 山頂からは東京湾、房総半島、伊豆半島、箱根連山、富士山などの360度のパノラマが楽しめます。歴史小説家の司馬遼太郎氏は、著書『三浦半島記』の中で、「その山頂からの眺望は、日本国のどの名山よりもすぐれている」と表現しています。
三浦半島の西海岸側からは、芦名口と前田川口の二つのハイキングコースを楽しむことができます。
芦名口からの登山道は、なだらかで広く、ゆっくり自然観察をしながら登ることができます。前田川口の登山道は、川に沿った遊歩道を含めて歩くと、山の生き物ばかりでなく清流の生き物の観察も楽しめます。

天神島/天神島ビジターセンター

天神島/天神島ビジターセンター

横須賀市佐島の天神島及び笠島周辺は、三浦半島を代表する動植物が分布するとともに、地質学上も重要なところです。南方系の海岸植物のハマオモト(はまゆう)が自生し、その分布は日本の北限となっており、横須賀市の”市の花”に指定されています。
現在は、天神橋(神奈川県の名橋百選)が架かっているために、島であることを忘れてしまいますが、この島は天満宮がまつられていて、渡ることのできない神の島とされていました。美しい自然が残されたこの島は、現在横須賀市自然・人文博物館付属臨海自然教育園となっていて、園内のビジターセンターでは、天神島の海岸植物や昆虫・魚類の標本、佐島の漁撈用具などが展示されています。三浦半島をとりまく海岸線の荒廃が進んでいる現在、ここで守られている自然環境は貴重な市民の財産です。

淡島神社

淡島神社

縁結びや安産祈願・航海安全の神社として知られるこの神社は、和歌山県和歌山市加太(かだ)の女神で婦人科の病に霊験があるという淡島さまを勧請したとされ、現在の祭神は少彦名命(すくなひこなみこと)とされています。すでに江戸時代から周辺一帯の人々の信仰を集めていたことが記録に残っています。桃の節句の3月3日の淡島さまの祈願には、「水が抜けるように安産」の願いがこめられ、底抜け柄杓の柄に麻を結んで奉納するしきたりがあります。平成元年より、神社前の芦名海岸から流し雛の行事がおこなわれています。淡島神社のほかにも、十二所神社や秋谷の「子産石」など、西海岸には安産や縁結びにまつわるところがいくつもあります。

十二所神社

十二所神社

鎌倉初期、三浦義明の子、佐原十郎義連(さわらじゅうろうよしつら)が、氏神の三浦十二天神を葦名城の鎮守として勧請したと伝え、七天神、五地神の十二神を祀っています。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、寿永元年(1182年)八月、佐原十郎義連が、源頼朝の妻室北条政子の安産祈願のため参詣を命ぜられたことが書かれています。
芦名城址は、現在の大楠小学校正門前の「城山」といわれる南北に長い岩山であったと伝わっています。三浦大介義明の弟・葦名為清(あしなためきよ)が築いたとされ、大楠小学校のあたりは、「御舘」と呼ぶことから館跡であったと考えられています。
文治5年(1189年)奥州合戦において活躍した佐原十郎義連は陸奥国会津に所領を与えられ、会津に分かれた庶流は、蘆名氏を称して会津若松市に黒川城を築き、戦国大名となって伊達政宗らと東北の覇権を争いました。

赤星直忠博士

赤星直忠博士

三浦半島地域の考古学研究の先駆者である文学博士赤星直忠博士が、県下全域に及ぶ広いフィールドと長年にわたる考古学研究の結果、採集した文化財遺物や諸文献を保存管理し、歴史研究の資料として提供しています。明治35(1902)年、横須賀に生まれた赤星博士は、昭和23(1948)年、日本考古学協会設立時に会員に推挙されました。県の文化財保護委員をはじめ鎌倉市、逗子市、横須賀市などの文化財保護委員を長く務め文化財保護の功績により、昭和47年(1972)、勲五等瑞宝章を授与されます。「時間が足りない」が口癖だった赤星さんは88歳で亡くなる直前まで研究に没頭し、残した文献資料は500編以上に及び、、また、横須賀考古学会を主催し多くの会員を育てました。
赤星直忠博士文化財資料館
「赤星博士が残した資料と遺物の数々を大切に保管し、地域で共有しながら研究を引き継いでいきたい。」資料館の設立には、文化財の保存に力を尽くし啓発活動にも取り組んだ赤星博士の意思を引き継ごうとする教え子たちの思いが込められています。資料館は建設会社の3階にあり、同社の営業時間内なら自由に閲覧可能です。毎週水曜日の午後には考古学研究者が集まり勉強会を開いています。
①弥生時代 弥生土器(写真左上)
②縄文時代 縄文土器(写真右上)
③中世 五輪塔文軒丸瓦(写真左下)
④古代 ト骨(写真中央下)
⑤古墳時代 人物埴輪(写真右下)
⑥縄文時代草創期 有舌尖頭器(写真中央)